偉大なるローカル線、深名線の思い出
深名線の廃線から20年が過ぎた。多くの国鉄赤字ローカル線が廃止となった後、深名線は北海道に残ったローカル線の中のローカル線と言える存在だった。
深名線は、深川と名寄の121.8kmを結んでいた路線だ。国鉄時代の1960年代から1970年代、赤字路線として廃止候補にあげられた。しかし、沿線の代替道路が未整備という事で、その対象から免れ生き長らえてきた。しかし、1995年(平成7年)9月4日、深名線は遂に廃止となった。
初めて北海道への上陸を果たした1988年3月、寝台特急・北斗星で札幌に到着すると、最初の訪問路線として何故か深名線を選び、乗りに行ったものだ。札幌からその日の内に行きやすいというのもあったのだろうが、深川と名寄の121kmの間、これと言った規模の街や有名な観光地がある訳でなく、時刻表の地図の上に路線が伸びる様が、どこか細々とし頼りなさげに見えたのに、どことなく魅かれたからなのだろう。
「おかえり沼牛駅」
深名線が廃止から20年になろうとしている頃、意外にもいくつかの木造駅舎が残っている事を知った。鷹泊駅、沼牛駅、政和駅、添牛内駅と4駅の木造駅舎が、傷みが進みながらも残っているらしい。
その中で沼牛駅の駅舎は地元の人が買い取り、雪下ろしや補修などをし地道に守ってきたという。廃線から20年の2015年7月18日、「おかえり沼牛駅」として1日限定の駅舎公開イベントが開催され、大勢の人で賑わった。
しかし、開業の1929年(昭和4年)より87年より佇み続け、そして廃線から20年。本格的な修繕が施されなかった木造駅舎は、傷みが酷くなる一方で、放っておけば崩れ落ちるのも時間の問題だった。そこで歴史ある駅舎を次世代に渡すため、大掛かりな改修を施す事になった。
改修にあたり、資金は「クラウドファンディング」でネット上から広く寄付を募る事になった。しかし期限の8月1日の23時00分までに、目標金額の200万円に1円でも達していなければ募金は不成立となってしまう厳しいルールがあった。
2016年5月31日からクラウドファンディングが開始となり、私もささやかながら早速、寄付した。しかし、なかなか金額の半分にも達せずやきもきしたが、最後の1ヶ月で追い上げを見せ、最終的には239万の金額を集め無事に成立した。
クラウドファンディングの目標達成で本格的な改修作業に入り、一方で、有志による改修・清掃などのイベントが何度も開催され、遂に改修が完了した。改修完了記念の「おかえり沼牛駅改修お披露目会」は11月6日に開催される事になった。その日が多くの人が集まりやすい日曜日というのもあるが、沼牛駅開業日の11月8日に近い事も意識したという。
見事に甦った木造駅舎
前日、運悪く休みを取れなかったため、当日、朝一の羽田発新千歳行きのJAL便に乗り、深川まで列車で駆けつけようと思った。降雪のため、フライトが条件付の運行になったり、各所の接続時間がギリギリになるなど危ない場面もあったが、10時5分、特急スーパーカムイで何とか深川駅に着いた。
走って跨線橋を渡り駅舎を抜け、駅前のJRバス深名線の乗り場に向かった。きっと沼牛駅に行く人で賑わっているびだろうなと思っていたが、バスを待つ人はたったの数人で、「それらしい人」は私を除けば僅か2人…。ガラガラの車内のまま、バスは深川駅を出発した。本州だとこれから秋が深まる11月の上旬だというのに、窓の外は一面の雪景色。しかも、なお容赦なく雪が降り続いていた。
バスは一旦、国道を外れ、沼牛駅最寄の下幌加内停留所に向かった。するとひたすら過疎地の雪原を走っていたが、家屋が散在する集落に入った。そして車の列が目の前に飛び込んできた!車の訪問者の駅前の道に列を成して駐車している。そして道には何人もの人が歩いている。普段は静かな集落の道が車や人で賑わい、バスの運転手さんも、すぐそこのバス停に行くのに一瞬、難儀したようだ。
バスを降りると、賑わいの奥に木造駅舎が建っているのが見えた。もう廃虚同然ではなく、味わい深く、そしてしっかり地に佇む姿を取り戻していた。心躍る気持ちで、雪を踏みしめ急いだ。
11月上旬、北海道にはもう冬が訪れ、周囲は雪で真っ白だった。渋く活き活きとした茶色の駅舎は、絶え間なく降りしきる雪で白く霞んでいた。
バスに乗った時は折角の記念すべき日なのに寂しいものだと思ったが、多くの人で賑わっていた。TVや新聞の取材陣も何組も来ている。そして記念品や幌加内名産の蕎麦を販売するテントも出店するなど、寒空の下、お祭りムードだ。
できれば人が入らないすっきとした状態で撮影したいものだが、今日はお祭りだ。そう思う方が野暮だ。第一、駅舎は大雪で白いヴェールが掛かっているようにしか見えない。
駅舎の脇を回りホーム側に出て、かつてはレールが敷かれていた場所降りてみた。そこは一面雪景色が広がっていた。まだ、葉さえ色付かず深まらない秋を飛び越え、いきなり真冬に襲われた私は、寒さに震え上がった。
そして、駅舎への一歩を踏みしめた。開業当時の姿を取り戻した狭い待合室は大にぎわいだ。普段、ひっとしとした木造駅舎を訪れる事が多い私には、どこに居ようか戸惑った。とりあえず残り僅かとなっていた沼牛駅駅弁を購入すると、休憩所として解放されていた駅前の農業倉庫で一休みした。
そして再び駅舎に戻ってきた。
復活した木造駅舎は待合室だけでなく、駅員事務室や宿直スペースと言った、普通なら乗降客が入る事ができないスペースも公開されていた。
出札口は沼牛駅グッズなどの記念品、手小荷物窓口は沼牛駅駅弁が売り切れた後は飲食物の販売で利用されていた。本来の目的ではないものの、昔のままの姿に再現された窓口が活発に利用されている様子を見ると、やはり嬉しいものだ。
今回の修復では、窓口裏側の駅事務室側も再現されるこだわり振りだ。出札口の駅事務室側は無人化された後、カウンターなど部材が撤去された状態だったという。そこで2006年に廃線となった、ちほく高原鉄道の上利別駅の木造駅舎の同じ部分の部材を譲り受け、沼牛駅の切符売場に取り付けられた。
上利別駅の木造駅舎は廃線以来、長らえて来たが、数ヶ月前に残念ながら取り壊されたばかりだった。もし、もう少し取壊しが早かったら、使い継うという発想も思い浮かばなかっただろう。縁あって、こんな形で沼牛駅で生きる上利別駅に、数奇な運命を感じずにはいられない。
窓口裏側の木のカウンターと引出し…、係員さんの邪魔になるので、少し離れた所から見るしかできなかったが、年月がしみ込んだような深く渋い茶色のカウンターと引出しは、沼牛駅の87年という空間に何の違和感も無く馴染んでいた。
駅事務室の奥の駅長住居スペースに、靴を脱いで上がってみた。玄関的な数畳のスペースの奥は、板敷きの居間となっていて、テレビでは深名線在りし日のビデオが流れ、ちゃぶ台の上には飴玉や幌加内に関した本が置かれている。来訪者が自由にくつろぐ姿は、まるで顔なじみの駅長の家に上がりこんでる風情…。
壁には沼牛駅修繕の様子や上利別駅など、関連する多くの写真が展示されていた。その中に修繕前の居間の写真も展示されていた。室内はボロボロで床板も無く荒れ放題で、とても人が居られる状態ではなかった。
だが、よくここまで修理したような思う程、室内は奇麗になっていた。隅から隅までの完全な改修ではなく、古さはあちこちにあるが、それでも同じ駅だとは思えない。
クラウドファンディングでは50万円のプランもあり、沼牛駅駅舎を一晩貸し切れるという内容だった。趣き深い木造駅舎に宿泊できる、ファンにはたまらない非常に魅力的なプランだが、高額過ぎで、このプランを選んだ人は居なかったようだ。
50万というのは高過ぎるが、一泊数万程度ならば絶対に行きたい。それに昭和年築の木造駅舎に宿泊できるとなれば、大きな話題になると思うのだが…。
押入れの壁紙には古い新聞が使われていた。ある一枚には昭和28年3月17日の日付が記されている。また、国鉄の労働組合の機関紙らしき一枚には「バカヤロー内閣を倒せ」という見出しが掲げられていた。当時の首相・吉田茂の失言による衆議院解散「バカヤロー解散」で、吉田内閣を糾弾するスローガンだ。記事だけでなく、隅の広告もレトロで時代を感じさせ、狭苦しい空間がまるでセピア色のタイムマシーンのようだ。自宅の押入れを秘密基地にして遊んだ子供の頃と、不思議と重なるような心境になった。
昭和28年当時の駅長さんが、古くなった押入れの壁を新聞で修繕でもしたのだろう。
板敷きの居間の奥には、トイレがあり、更にその奥には水場や、何とお風呂も残っていた。浴槽は木製の桶でかなりのシブさだ!スノコがプラスチック製で、それほど劣化していない所を見ると、簡易委託化される1982年(昭和57年)3月30日までは、使われていたのではないだろうか。
室内の掲示によると、この風呂場は開業当時からのものでなく、後年に増築されたとの事だ。
本州など北海道の他の地域ににも、駅員用の浴場が駅構内に残っている場合もあるが、別棟の小屋になっている事が多い。冬はマイナスの気温が当たり前の北海道では、やはり風呂場を別棟にすると、僅か数メートルの距離でも、入浴直後の体を極寒に晒すのは体に悪いので、駅本屋内に設置されたのだろう。
12時を過ぎると、少し人が引いたようで、見事なまでに再現された窓口跡をより堪能する事ができた。
出札口のカウンターは、無人駅となり窓口が塞がれた後も残っていたという。窓枠は無くなっていたが、今回の改修で復元された。木の窓枠はやはり味わい深く、古びたカウンターにも似合っている。そしてまだ表面がすべすべとしたきれいな平で、角が取れていない真新しい木材で作られた窓口は、使い古された窓口ばかり見てきた私には、とても新鮮に映る。
出札口の窓枠の再建にあたり類似例を探したところ、1928年(昭和3年)築の美作滝尾駅の木造駅舎と似ている事がわかり参考にしたという。ここでも失われつつある古き良き駅舎の造りが受け継がれているのだ。
駅舎内部を堪能した後、後ろ髪を引かれつつ外に出た。やはり寒い!
改札口ラッチ(柵)のうち両脇のものは、上利別駅から譲り受けたという。中央の柵と同じく木製だが、よく見ると風化して木目が浮かび上がり質感がまるで違う。
人が少し引いて、そして雪が幾分か弱まった隙に、改めて駅舎を正面から撮影してみた。よくここまで木の質感を全く損ねないで昔ながらの雰囲気のまま、きれいに仕上げてくれたものだと思う。寄付をして本当に良かったとしみじみとかみ締めた。
更に近づくと、木の質感がより迫り来るかのようで味わい深い。窓枠も木製だ。
渋く濃い茶色は「松煙」「ベンガラ」「柿渋」と言った古来よりの塗料を調合し、元々の雰囲気を大切にした色になるようにしたという。茶色いペンキも悪くないが、木により良くなじみ木目さえもくっきり浮いているこちらの方がより木造駅舎らしいものだ。
深い雪に包まれた木造駅舎というのは、やはり冬の北海道らしく風情溢れる風景だ。
駅舎が甦り、JR時代の駅名標が設置された駅は、まるでいまだに現役であるかのようだ。そして木々や山に囲まれた自然豊かな風景はきっと、何十年も前から…、いや、この駅が開業した当時からたいして変わっていないのかもしれない。違うのはレールがあるかないか位…。
むしろ列車間隔が空く深名線だから、そのうち道床に積もった雪を踏みしめながら、単行の列車がやって来る…。そんな幻想さえ、一瞬目の前に見えたような気がした。
[2016年(平成28年) 11月訪問]
~◆レトロ駅舎カテゴリー: JR・旧国鉄の保存・残存・復元駅舎 ~
沼牛駅基本情報+
- 鉄道会社・路線名
- JR北海道・深名線
- 駅所在地
- 北海道雨竜郡幌加内町字下幌加内
- 駅開業日
- 1929年(昭和4年)11月8日
- 駅廃止日
- 1995年(平成7年)9月4日
- 駅舎竣工年
- 1929年(昭和4年) ※開業以来の駅舎
- 駅営業形態
- 無人駅(廃止前)
- 代替バス
- ジェイ・アール北海道バス・深名線。時刻は同社路線バス・時刻表のページから深川方面(深名線)の項目から時刻表をリンクで。
- 駅舎公開・イベントなど
- 駅舎の内部は、通常は非公開だが「おかえり沼牛駅実行委会」により、食べものの提供や雪かきなど、いろいろなイベントが開催され、その時に、内部も公開されているようだ。詳しくは
おかえり沼牛駅実行委員会ウェブサイト、もしくは公式Facebookページまでどうぞ。