初訪問
有田駅の1番ホーム片隅にある枯上がった池の横を、今日もハイパーサルーンが走り抜けてゆく…
[2006年 (平成18年)6月訪問]
再訪記:「1964」に湧く駅員さんたち
松浦鉄道に乗り、有田駅で乗り換えの時間があった。有田駅と言えば、私の中では枯池を見た事が記憶に残っていた。前回はちょっと見ただけだったが、今回はもう少し時間がある。
初夏の夕刻、改めて枯池の正面に立つと、緑豊な池庭だった事が分かる。緑の中につつじが咲き、彩りを添えていた。
今回、何気なく今回念入りに裏の方まで回ってみると、文章が綴られた銘盤のようなものがあるのに気付いた。何か記念碑なのだろうか?
陶器…、おそらくは有田焼のプレートに記された文章は、「1964年(昭和39年)」という書き出しで始まっていた。この年を聞いてピンと来る方もいると思うが、戦後日本の復興を象徴する2大イベントである、東京オリンピック開催と東海道新幹線開通の年だ。全文を読むと、この庭はまさにこの2つの出来事を記念して、当時の有田駅全駅員さん達が汗水流して造られたと綴られていた。文中の
「本苑の造園を発起せり」
という一文が、喜びに湧く当時の駅員さん達の気持ちが伝わってくるような力強さだ。苦しく悲しい時代を経てきたからこそ、復興の一つの到達点に至った喜びもひとしおなのだろう。いや、きっと駅員さん達に留まらず、人々の喜びの縮図がこの庭なのだろう。
由来が記された碑の隣には、駅員さん一人一人の名前が記された陶器のプレートと、その隣には外部の協力者の個人や会社が記されたプレートと、計3枚のプレートがあった。
仕事の合間、しかも夏の炎天下にこんな立派な庭を造るのはどれだけ大変だったのだろうと思う。きっと完成の暁には駅員さんだけでなく、その家族とも眺めて喜び、旅行者にとっても和みとなったのだろう。今では池こそ枯れてしまったが、風に緑が揺らされざわめくたびに、当時の駅員さん達の想いがいまだ伝わってくるかのような感慨を覚えた。
駅舎は改築されていて奇麗になっている。駅舎の向かって右横にはバスロータリーがあり、その奥の緑豊かなスペースが枯池のある所だ。バス停はこれで事足りるのかもしれない。しかし、あの池庭を避けるように小さなロータリーが設置された様は、やはりあの当時の駅員さんの汗と思いが詰まった庭を、たやすく壊す事ができなかったからこうなっているのではと思える。
それにしても、何故あの碑はあんな陰にあるのだろうか?他の枯池でも、由来を記した碑文がある場合もあるが、物陰や隅だったり裏面だったりと、目立たない場所にある。折角これほどのものを造ったのだから、もっと目立つ場所にあってもいいような気がする…。でも当時の人々は、きっと今の人々より奥ゆかしかったのだろうなと自問自答し妙に納得してしまった。
[2010年(平成22年) 5月訪問](佐賀県西松浦郡有田町)
追記
有田駅で接続する第三セクター鉄道の松浦鉄道。有田から2つ目の駅は蔵宿駅だが、この駅にも有田駅と同じようなモノがあり、大いに驚かされた。それについては
「駅の枯池・蔵宿駅」
または
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有田駅訪問ノート(駅舎etc…)
1996年(平成8年)に改築された小奇麗な駅舎で、JR九州と、第三セクター鉄道・松浦鉄道の共同使用駅。1.2番線をJRが、3番線を松浦鉄道が利用している。約3km西に、長崎県との県境がある。
置物や装飾など、駅の至るところに焼物が使われているのが、有田焼で有名な有田町の玄関口の駅らしさを感じさせる。